2021年7月末 day -(マイナス)7からday -1
コロナ禍になって二度目の夏。7月23日に東京オリンピックが始まって、僕は開会式と同じ時刻にスタートし、終了時刻まで3時間ぶっとおしで演奏するという、自宅での「エマソロライブ」を配信するために、練習やネット関係の準備など、それなりに忙しい日々を送っていた。
すでに前の年からお客さんのいるライブは激減していて、ミュージシャンとしての活動は自宅での作曲やレコーディング、それから自分の作品を発表している自主レーベルの作業などに、結果的に多くの時間を割くようになっていた。それがこの年の夏になってオリンピックが行われるということになると、若干だがライブの予定が増えてきた。特に8月6日にはカクバリズムが主催するVIDEOTAPEMUSICくんのワンマンライブがあって、集大成的なライブを大編成のバンドで行うことに久しぶりの楽しみがあり、自分のパートの準備もそれなりに時間をかけて行っていた。
そんなことを除けば、僕と連れ合いの生活は極めて「静か」なものだった。そもそも出歩くということがほとんどなくなっていたし、外出先は近所のスーパーと、制作したレコードを発送する郵便局くらい。食べ物の買い出し時にはマスク手袋はもちろんのこと、買って帰ったものは玄関でアルコールを使って拭き、僕はナサリンで鼻うがい、連れ合いはシャワーへ直行というのが習慣になっていた。
僕には、極めて可能性の高い感染機会が存在した。発症の4日ほど前にシアターブルックで出演したあるライブイベントがそれで、別の場所で発表しているから詳しくは繰り返さないけど、要するにそれは、感染対策の極めて緩いイベントだった。状況を総合的に考えて、これ以外に感染機会があったとは思えない。しかし、主催者サイドが参加者の連絡先を把握していなかったために、僕の感染経路をそれ以上詳しく追うことは、事実上不可能だった。それで僕は発症した後になってからも幾度となく、イベント前後の行動を思い出そうとした。僕のように毎日決まった職場に行くわけでなはい者にとって、感染することになるとは思っていなかった日々のできごとを覚えておくのは意外に難しいのだけど、僕には、毎日手帳に3行ほどの日記のようなメモをとっておく習慣があったから、それによって感染前の一週間を再構成することができた。
day 0より前の一週間に、近所のスーパー以外で僕が外出したのは3回だけ(スーパーも1〜2回)。day -7である7月27日にはVIDEOTAPEMUSICくんのリハーサルがあり、スタジオへ出かける。普段ならリハーサル後はメンバーと飲みに行くことも多いのだが、この日はすでに新規感染者も増えていたから、演奏が終わったら即おひらき。僕は惣菜を買ってドラッグストアに寄っただけで家に帰った。
day -6から-4までの3日間は、パソコンのセッティングなどをしていて、短時間の食品買い出しの他には、文字通り一歩も家から外に出なかった。
その次に家を出たのは、day -3である7月30日、つまり問題のライブイベントの当日だった。イベントの行き帰りには地下鉄とJRを使ったが、両方とも空いていた上に、電車内ではいつもやっているように、人から離れたポジション。会場との往復以外にはどこにも寄らなかったが、行きの東京駅で電車を乗り換える際に、郵便局で物販の発送をしている。大手町の地下にはワクチン接種のための行列ができていた。
その次の8月1日、day -2も、吉祥寺の行き慣れたライブハウスで公演。こちらは、しっかりと感染対策のなされたお店のイベントで、有観客だったがお客さんは全員マスクを着用し、ステージから距離をとった位置で観てもらった。ライブ前の食事も「個食」で、ライブ後もすぐに帰った。
8月2日、day -1は、翌日行われるVIDEOTAPEMUSICくんの最終リハーサルを前にして、一日家にこもって自分のパートのチェック。思ったより時間がかかって、寝るのは明け方近くになってしまった。
そして、2021年8月3日(火) day 0
日本橋・三井ホールでのライブを三日後に控え、この日は、大きなスタジオでプロジェクトのメンバースタッフ全員が集まって行うリハーサル(いわゆるゲネプロ)があった。家を出て楽器を運んでいる時、少しだけ空咳が出たけど、昨夜遅くまで作業をしていたからな、とさして気に留めなかった。
リハーサル自体はいい感じで進み、まったく問題なし。本番が楽しみだ。リハ中、僕の近くにあったスタジオの窓は休憩ごとに開けられ、演奏や打ち合わせ中はもちろん軽食をとる時もマスクを着け、必要以上に距離を詰めずに会話する。リハ終了後も、談笑するメンバーを置いてなぜか僕だけが先に帰った。無意識に翌日起こることを予感していたのかもしれないが、後になって、このような行動をとっておいて良かったと思うことになる。
リハがいい感じで進み、前日までの作業が功を奏したから嬉しくて、家に帰った後は酒を飲んで、何もせずに寝る。ところが、夜中4:30ころに喉が痛くて目が覚めた。変だなと感じたが、酒のせいだと思って気に留めず、水を飲んで再び寝る。
ちなみに、連れ合いはこの日、疲れを感じて遅くまで寝ていた。連れ合いがCOVIDと判明するのは8月下旬なのだが、僕が数日前のイベントでウイルスをもらって帰ってきたとしたら、すでにこの日から連れ合いに感染させていた可能性も、なくはない(しかしその後で一度、PCR検査陰性という判定が出ている)。直接ウイルスに曝されたわけではない連れ合いがいつ感染したかというのは、今もってはっきりしないことの一つだ。
8月4日(水) day 1
朝は普段通りに起きたのだが、体の感じが何かおかしい。僕はだいたい精神面でも肉体面でも反応が薄くて遅いので、熱があっても即座にしんどくならず、始めはこの感じが何なのか分からなかった。昼過ぎになってふと体温計を出そうと思い立ち、測ったら37.7℃だった。咳はなく、喉もすごく痛いということはない(COVIDの全期間を通して、なぜか分からないが僕の場合は、咳がほとんどなく、喉もひりひり痛むようなことはなかった)。
僕は小さい頃から扁桃腺やその周囲を腫らすことが多く、親から「あんたは(発)熱のプロやな」と言われるほど頻繁に熱を出していたから、炎症を起こした自分の体がそのあとどんな「コース」をたどるのか、勘を持ったつもりになっている。熱があるのを見て僕はすぐこの「コース」と照らし合わせて、2日後のVIDEOTAPEMUSICくんのライブに参加できるか、自分の中で計算をしてみた。それによれば、市販薬を飲むか重そうな時は病院に行って薬を処方してもらい、大量の汗をかいて寝れば、翌日にはやや軽くなり、二日後のライブ本番日には多少の熱があっても問題なく参加できるだろう、という見込みが立った。……人というものは常に、事実より楽観的な方向に偏った判断をするものだと、つくづく思う。まあ病院には行っといたほうがいいだろうと、軽い気持ちでかかりつけの耳鼻咽喉科に電話をしたら「直接ウチには来ないでください!まず近隣の発熱外来を設けている医院に行ってください」と言われた。恥ずかしい話だが、この時点ではCOVIDの可能性も、自分が発熱外来に該当するともまったく考えていなかったのだ。自分では普段からコロナの状況に注意を払っているつもりでも、どこか他人事だと思っていたことが、この自分の行動からうかがえる。区役所の「発熱外来相談」に電話して、自宅から徒歩10分弱の内科医院に発熱外来が設けられていることを教えられ、歩いてゆく。すぐにPCR検査。壁に頭をつけて先生に鼻の奥を拭ってもらう。その個人医院では、広くはないスペースを工夫して動線を分け、先生も看護師さんも完全防備で僕の診察をした後に、それを解いては一般の患者さんの対応をしていた。大変なストレスがかかっているだろうと思った。
解熱剤と普通の風邪薬などを処方してもらい、家に帰る。西日がまぶしくて暑い。この時までの自分の「見立て」は、二日前までの睡眠不足のせいでいつもの喉の炎症が起こり、熱が出たというものだった。しかし次第に先週の、大勢のお客さんがノーマスクで参加していたライブの風景が、繰り返し目に浮かぶようになってくる。もうひとつの可能性、COVID-19。しかしとにかく、ライブの開催にマイナスになってはいけない。VIDEOTAPEMUSICくんと所属事務所であるカクバリズムに「大丈夫だと思うんですが、熱が出まして……」と報告しておく。もし COVIDだったら、少なくとも自分は参加できない。何とかそれだけは避けられないかと、あらゆる可能性を考えながらこの日は寝た。しかし翌日に出た結果は、その中で最も悪いものだった。
8月5日(木) day 2
朝10:00 体温37.4℃。昼13:45、昨日の医院の先生からPCR検査の結果が電話で伝えられる。「残念ですが、陽性です。自宅で療養してください。後ほど保健所から連絡が行くと思います」。
ショックだったというよりも、連絡しなければならないことで頭がいっぱいになって、自分が感染者になったということを考えている余裕がなかった。VIDEOTAPEMUSICくんのライブは翌日。普段は予定などあってないような暮らしをしているのに、よりによってこんなタイミングでCOVIDになるとは。すぐさまVIDEOTAPEMUSICくんとカクバリズム社長・角張氏に連絡し、自分は参加できないがライブは開催してくださいと伝えた。よく考えるとこれも楽観的すぎる申し出で、最大の感染力を発揮しているはずの発症直前にメンバー・スタッフの全員と同じ部屋でリハーサルをしているのだから、そのイベントが開催できるわけがないのだけど、とにかくそれが自分の気持ちだった。角張氏から返事があり、ライブは延期とすること、リハーサルに参加した全員のPCR検査を行うことが伝えられる。実はカクバリズムはその二日後に予定されていた別のライブもメンバーに陽性者が出たことでキャンセルとなり、八月の連休という興行的に大事な週末に大きな痛手をこうむることになる。それなのに角張氏はそんなことはおくびにも出さず、電話口では「パルスオキシメーター持ってますかー?なかったら送りますよ!」などと僕の心配だけをしてくれる。今回、カクバリズムの迅速で的確な対応と社長の優しさには、本当に感謝している。
ライブ延期の告知をこの日の夜にすることに決めた際、感染者である僕、エマーソン北村の名前を公表するかどうか、角張氏から相談があった。少しだけ考えてからすぐに「公表してください」と僕は答えた。感染者に対して誹謗があったり偏見を持たれたりする場合があるのは知っていて、本当にくだらないことだと思っているけど、かといって別にそれに対抗しようという気持ちがあったわけでもない。感染したら、それを知るべき人には感染したと伝える。それだけのことだ。
さらに、感染機会に関係のありそうなシアターブルックをはじめ、仕事上の必要がある人々に連絡し、SNSで告知もして、バタバタしているうちに一日が過ぎた。体温は夕方に38.2℃。解熱剤を飲み、布団の上で寝たり起きたりしながら、結局ほとんどずっとノートパソコンとスマホを前にしていることになってしまった。
そして、連れ合いと二人で住んでいるマンション内で、自分を隔離しなければならない。連れ合いとは別室で生活することにし、食事も別。しかし別室といっても扉一枚で隔てられているだけでどう考えても空気は混ざっているし、トイレや洗面所は分けるわけにいかず、「隔離」というには程遠い状態にならざるを得ない。これが「自宅療養」の実態だ。連れ合いとは自分の感染機会についても正直に話し合う。一年半感染に気をつけて過ごし、やっとワクチン接種の予約を二週間後に取ったばかりの連れ合いにとっては、我慢のならない出来事だっただろう。
8月6日(金) day 3
前の日の夜にカクバリズムと僕から、僕のPCR陽性、そしてVIDEOTAPEMUSICくんライブ延期の発表を行った。day 0のリハーサルで一緒だったライブメンバーとスタッフのPCR検査結果は数日かけて判明し、全員が陰性だった。スタジオ内でもマスクをつけ、しっかり距離を保ったことが功を奏したかと、ひと安心。発表後のSNSでは、すぐに沢山の人から励ましの言葉をいただいた……と思う。申し訳ないのだけど、発表の直後から僕の気持ちは急速にSNSから離れてしまい、寄せられたコメントも一度ざあっと見たきりで、返信することもなかった。
昼12:20、PCR陽性と判明した翌日になって、初めて区の保健所から連絡が来る。自宅療養中の注意事項などを聞き、治った場合の判定方法を質問する。特に療養終了時のPCR検査などはなく、症状のない状態が72時間続けば外出しても良いとのこと。この日の朝〜昼の体温は37度台前半。この時はまだ保健所とのやりとりも、このまま寝ていれば治るだろうということが前提になっていた。むしろこの時の問題は連れ合いが感染していないかどうかで、保健所とのやりとりによって、濃厚接触者用のPCR検査場があるということを教えられ、彼女はそこへ向かう。
昼間は目覚めているが起き出すのはしんどいので、布団の中で時間をつぶす方法を考える。本や音楽は僕の場合、集中しすぎて体力を使ってしまうのでNG。そこで僕が発明したのが、「脳内ストリートビュー」である。過去にツアーで訪れた街の風景を、通りに沿って思い出していく。地図通りでなくて構わないが、写真のように思い出すのではなく、ちゃんと脳内で時間をかけて「歩く」ことが重要。これは良いアイデアだった。熱が上がってからはできなくなったが、いろいろな街に「行った」。東北や四国の、小さめサイズの都市が一番上手くいった。
8月7日(土) day 4
この日僕はこんなツイートをしている。「感じとしては、子供のころよく喉を腫らして熱を出していたのの、より熱高く、よりしんどく、より長く続くヴァージョンという印象です。」
この時点では僕はCOVIDをこのように考えていた。まだ、今まで自分が経験した風邪あるいは扁桃腺炎・扁桃周囲炎の延長上にあると思っていたのだ。
実際には、前日までは37度台だった体温が、この日の朝は38.3℃になっていた。「よく寝て熱が下がったような感じがするのだが、起きて体温を測ると、むしろ高い」というパターンがここで始まっていた。熱は昼間中上がり続けて、16:30には39.0℃を超えた。
この日の午後にはカクバリズム・角張氏が、パルスオキシメータを郵便受けに置いていってくれた(区から貸与されたものが届くのは、まだ先だった)。血中酸素飽和度(以下酸素と略す)、ざっくりした僕の理解では、肺がきちんと働き、血液中に必要な濃度の酸素を与えてくれているか、を測る装置。測ってみると95だった。恥ずかしながらこの数字の意味も測った後からネットで調べた。数字の大きい方が望ましく、96を切ると中等症の疑いあり、とある。それでも、最初で測り方が下手だったし〜、とあくまで自分の状態を正面から見ようとしなかった。
今から思えば、この日の段階でもっと丁寧に自分の状態をとらえていれば、そして適切な医療を受けられていれば、その後の容態はあれほど悪くならなかったかもしれない。しかしこの時点ではまだ、おとなしく寝ていればCOVIDは治ってゆくものだと思っていた。子供の時から季節の変わり目ごとに熱を出し、50才を過ぎても体調的に「低空飛行」の人生を送っていることが、逆に発熱を軽く見ることにつながったのかもしれない。そして、このタイミングで月曜日までの三連休に入ったことも不運だった。処方された解熱剤・カロナールはこのペースでは連休中に飲み切ってしまう。しかし発熱外来を受診した医院は既に木曜日から夏休みに入っていて(PCR検査の結果は休日を返上して連絡をくださった)、やむなく市販の薬と処方されたカロナールを交互に飲むような状態になった。これも良くなかったと思う。
この頃僕が自分の状態を判断する上で、少なからず影響を与えたネット上の情報がある。それは「新型コロナ 症状」などで検索すると目にすることも多い、ある曲線グラフ。COVID発症からの日数を横軸として症状の経過を表したもので、0日からぐっと上がり、5日を越えると急に下がる曲線には「軽症」の文字とそのパーセンテージが記されている。もうひとつそこからぐっと上がる曲線もあって、そちらには「中等症」そして「重症」とあり、5日を境に曲線が上下に分かれてゆく図柄になっている。
グラフには「ウイルス量」「抗体」の変化を示す曲線もあるのだが、僕の目は、5日目で上下に分かれる曲線と、症状の下に書かれたパーセンテージの数字にくぎづけになった。グラフの示していることとは関係なく、5日というのが軽症で済むための「期限」であり、パーセンテージでは多数を占める「軽症グループ」に入れなかったら中等症あるいは重症に進むしかない、という風に僕には読めて、焦りと共に、その曲線が頭から離れなくなった。
このグラフ自体には何ら誤った部分はない。しかし、「科学的」に見えるグラフのような情報からも、人は自分が見たいものを見るものだ。グラフには軽症と中等症・重症を分ける要因は何かといったこととは関係のない「客観的な情報」しか書かれていないのに、今現実にday 4を迎えている熱38度の者から見ると、その曲線は別の意味を持ってくる。そこにパーセンテージが書かれていることも大きかった。「自分はこっち(軽症)に入れるかな、入りたいな、入れるんじゃないかな……」と想像は、客観的とはまるで逆の方向に進んでしまう。
今改めて調べたら、このグラフは海外のサイトからの引用であり、引用元のグラフには症状ごとのパーセンテージは記されておらず、僕が目にした数字は日本の筆者が加筆したものだった(その旨も明記されている)。つまりこのグラフはもともと「COVIDの症状経過にともなうウイルス量と抗体の変化」を示すために作られたもので、「症状が分かれてゆく日とその割合」を表したものではない。二つのグラフを見比べると違いはとてもわずかだが、もし僕が引用元のグラフを先に見ていたら、この日抱いたような印象を持っただろうか。
「客観的な」情報の受け取り方について、考えさせられる一件だった。
連れ合いのPCR検査の結果は陰性だった。この日も彼女は微熱があったのだが、熱中症になりかけたのだろうということにした。しかし喜んでいる暇はない。結果の出た瞬間から自宅内隔離を本格的に行う。部屋をへだてる扉の隙間をガムテープでふさぎ、作ってもらった食事はドア越しに受け渡し、会話もスマホのメッセージで行うことにする。扉のあちら側とこちら側で、着信音だけがチンチン鳴っている。
8月8日(日) day 5
明け方から雨。関節が痛くて目覚め、熱を測ると38.3℃。再び寝た後で、すっきりと起きても熱は下がらない。サブスクの映画を観たりうどんを食べたり冷や汁を食べたりして一日が過ぎ、そろそろ良くなるか、次に測ったら熱は下がっているかと期待するのだが、結局一日中38度台で変わらなかった。酸素は平均96。
僕は古い人間なので、祖母の「熱のある時は体を温めなければならない」という教えを、この年までずっと守ってきた。布団を頭までかぶって寝て、汗だくになって起きれば熱が下がるという発想だ。今回もそれを実行したために、布団は起きる度にぐしょぐしょになった。干すわけにいかないから、布団乾燥機をかける。真夏にクーラーもない締め切った部屋で温度の上がることばかりやっているから、部屋の中はひどい状態になっていただろう。体に対してもきっと良くなかったと思う。後日、看護師さんから熱のある時には涼しくして良いとアドヴァイスされ、祖母の教えは数十年経ったのちに、残念ながら却下となった。
8月9日(月休) day 6
雨。深夜、関節が痛く、トイレも多くてよく寝られない。耳の下のリンパ節が熱く腫れているようだ。二時間ごとに起き、ポカリスエットを飲んで、寝たいが苦しくて寝つけない、を繰り返す。
熱は朝10:00に38.9℃。雨のやんだ昼の数時間だけ下がってまた上がり、夕方には39度を超えるようになる。いよいよ普通の発熱とはレベルの違う状態になってきた。軽い下痢もある。しかしカロナールはとっくになくなっており、昨日からは市販の解熱鎮痛薬を、注意書きの用量通りに飲んでいる。休日でも開いていた処方箋薬局にカロナールをお願いしたが、やはり医師の処方箋がなければ出せないとのこと。仕方がないので市販の薬を「追いナロン」と称して多めに飲んだ。寝られるようになったが、それでも熱は下がらない。酸素は95〜96。
僕は熱があっても食事は食べられる。その点だけは自分の体に感謝している。作ってくれているのは連れ合いだけど。この夜は、トマトをまるかじりしたらとても美味しかった。
8月10日(火) day 7
朝方晴れて暑く、滝のように汗をかきながら意識をなくすように寝て、良くわからないコード進行と4つ打ちのキックドラムが繰り返す夢を見て起きる。気分はスッキリしたのに、熱は38.8℃と良くないばかりかさらに上がって、一日を通して38度台後半が普通となり、39度を超える時間も長くなる。
連休が終わって開いた医院にカロナールとトラネキサム酸(喉の炎症を軽くする薬)をお願いする。本人が来院しなくても処方してもらえたので、連れ合いに取りに行ってもらう。カロナールを飲むと一時的に熱は37度台に下がるが、数時間するとまた39度前後に戻る。酸素は平均すると96。
お昼はあげ入りにゅうめん、夜はおかゆにかぼちゃ、シチュー。連れ合いに買いだめしてもらったレトルトや冷凍食品が役に立つ。実家にメールして、COVIDにかかったことを報告。親はSNSを使っていないので、この日僕から伝えるまで感染のことを知らなかった。
親に限らず心配してくれた多くの人に病状を伝えられなかったのは、ネットから気持ちが離れたというのもあるが、それより、自分達ですら病状を把握する方法がなかったというのも大きい。普段の風邪にだって診断というものがあるのに、今は、毎晩連れ合いにごはんを作ってもらって、解熱剤を飲んで、「明日は良くしよう」と声をかけあって、寝るだけ。そして夜中になると、その願いはむなしかったと判明する。見通しというものがなく、従って本当の意味で希望を持つこともできない。僕と連れ合いのメッセージの中からも、前向きな言葉がだんだん減っていった。
8月11日(水) day 8
カロナールを入手できたけど高い熱は変わらず、むしろまた一段階悪くなった感じがする。熱は午後から39度を越え、解熱剤の切れた時には39.9℃になった(メモに記録した中で最も高い)。これより前の日には、昼間は横になっていても目覚めている時間があったが、この日は起きて何か食べて薬を飲むとまたすぐ寝てしまうようになる。寒気もする。
39.9℃という数字を見たので、連れ合いに区の「自宅療養者健康観察センター」へ電話してもらい、熱の高いことを訴える。この時はまだ入院の可能性を、少なくとも僕は考えていない。教えてくれたのは熱を下げる方法ではなく、高い熱への対処法だけだったが、とにかく体から熱をとることが大事というアドヴァイスは役に立った。部屋を涼しくして、こめかみなど要所を氷のうや保冷剤(スーパーやお菓子屋さんにあるもの)で冷やす。夜に測った酸素は94〜95。
なお、僕がやりとりした自宅療養者健康観察センターは、僕の住んでいる区の組織。東京都の同様の組織(フォローアップセンター)からはメッセージが一度来ただけで、内容のあるやりとりをした覚えはない。連れ合いが後に発症した時も、ほとんどのやりとりは区と行った。都から電話が来たのは既に入院した後で、しかも自動音声によるものだったとのこと。
8月12日(木) day 9
この日のメモには「中等症に進んだことを疑う」とある。その理由として:
・熱は39度台まで上がることが普通になってきた。熱を出すことに慣れている僕でも、さすがに39度を超えると体を動かすのがしんどく、意識もぼんやりしてくる。
・酸素は前日の夜から95を切り、94あるいは93という数字を見るようになった。
件のグラフの「軽症グループ」には、結局入れなかった。こうなってはもう、自力でこの状態を良くする方法はないだろう。
しかしまだ僕は「入院」をはっきりと口に出すことができなかった。熱のために何も考えられないということもあったが、どこかで「こんなことで他人に迷惑をかけるわけにはいかん」という「昭和の男」的な発想から逃れていなかったのだろう。連れ合いにはもう十分迷惑をかけているのに。それに実は、僕にとって入院は人生初だった。結果として、菅首相(当時)が進める「中等症は自宅療養」の路線に憤慨しながら、自身はそれに従っていたことになる。
むしろ連れ合いはこのころから入院が必要と考え始めたのだろう。再び自宅療養者健康観察センターに電話して、その可能性を尋ねる。センターから保健所に連絡しておくが、現状では入院は厳しいとのこと(後でニュースを調べたら、この翌日に東京都の検査陽性者数は2021年の最高を記録していた)。酸素を濃縮して吸入できるようにする機械を貸与して自宅で使うことも可能だと教えられた。
寝る時は脇の下、鼠径部、こめかみに保冷剤を手ぬぐいで巻き付け、アイスノンを枕にする。数時間後には融けてしまうので、その都度取り替えるのが大変だ。トイレに行くと尿がルビー色をしている。熱は朝と夜が高く、昼には一時下がるのだが、夜には最高39.7℃に。酸素は93まで下がり、一時91。
8月13日(金) day 10
熱は変わらず39度かそれに近い。パルスオキシメータの数値が91〜93と低くなってきた。呼吸数も増えているような感じがする。それでも腰の重い僕に業を煮やした連れ合いの判断によって、自宅療養者健康観察センターではなく保健所に直接電話して、はっきりと入院の希望を伝えることになった。回答としては、明日明後日(土日曜)に入院することは無理であること、そのかわり、酸素の機械の貸与や薬の処方は行なえるので、それぞれ、医師の電話か往診による(結局往診はなく電話だった)診察が実施された後で対応するとのこと。我々ができたのは、それらを早く進めてくださいとお願いすることだけだった。
カロナールではまったく熱が下がらなくなったので、試しに別の解熱鎮痛薬・ロキソニンを飲んでみる。これが最初だけ効いて、久しぶりに37℃という数字を見たその時に、「センター」から看護師さんによる病状確認の電話が入った。こういう時、薬によって一時的に下がった体温を伝えるべきなのか、それまでの39度という数字を言うべきなのか。僕は真っ正直に「今は36.9℃です〜」と答えて、聞いていた連れ合いからあほか、と言われる。
夜になってロキソニンが切れると、再び熱は上がった。酸素91。深夜23時に看護師さんから、二度目の病状確認電話をもらう。こんな時間まで仕事をしているとは。電話を担当する個々の職員(毎回違う人のことが多い)は丁寧に受け答えしてくれるが、センターや保健所の全体としてはやはり、混乱し疲れている様子が感じられる。こちらにもそんな観察をしている余裕はないのだが。
8月14日(土) day 11
後から連れ合いに聞いたところでは、前日の夜、僕は呼吸する度にゼイゼイと音を立てて寝ていたそうだ(自分では記憶がない)。酸素は91から、最も低い時は88になった。
昼過ぎ、区内のクリニックの医師から電話をもらう。往診や入院の件かと思ったがそうではなく、先日説明のあった酸素の機械を貸与する前提としての電話診察だった。区からの対策を実施してもらうためにはその前に一つずつ、医師から問診を受ける必要があるのだった。「入院についても調整しますが……」と医師は言う、しかしそれはつまり「当面入院はムリ」という意味だ。でもこの医師は親切な方だった。そして対応は早かった。機械の納入業者に連絡をつけてくれ、数時間後には搬入の打ち合わせが電話であり、18:00、看護師さん二名が酸素の機械を持ってウチに到着した。
僕は見ていないが連れ合いの話によると、病人の部屋に入る前に看護師さんたちが頭から足先まで完全防備のスタイルになるのを見て、こんな、ガムテープで隙間をふさいでいるようなマンションに一緒に住んでいて、自分が感染せずに済むだろうかと思ったそうだ(そしてその不安は当たっていた)。
・酸素の機械(酸素濃縮機と言うのかな)の効用:普段よりも濃度の高い酸素を吸うことで肺が酸素をとり入れやすくなり、その分体力を別のこと(炎症との戦いなど)に向けられるようになる、とのこと。
機械は大きめの加湿器くらいで、酸素濃度を上げた空気の出口には長い長いホースがついている。ホースの先は鼻の穴の位置に合わせて作られたプラスチックの管になっていて、これを耳からかけて装着する。ホースは数メートルの長さがあり、装着したままトイレや洗面所に行ける。
吸入を始めてすぐに呼吸が楽になり、今までかなり悪い状態になっていたことに気がついた。これからは24時間、ホースを這わせたまま生活することになるが。
夜20:00には、ステロイド(副腎皮質ホルモン)を処方してもらう前提となる、別の医師からの電話診察があった。こちらの医師は、……この日記ではできるだけ、人を悪くいうのは避けたいと思っているのだけど……正直、医師の適性を疑うような、電話口での話しぶりだった。肺炎確定ってことですね。薬は処方しますけど、ホントは入院しかないと思いますよー。僕だって薬を処方した患者さんが入院できなくて、万が一亡くなるようなことがあったら嫌ですからね。等々。話の内容は間違っていないのだが、このような方が医師として普段どう患者さんとコミュニケーションしているのか、想像もつかなかった。しかしとにかく、薬は処方してもらった。
寝る前に測った酸素の数値は、95ないし97と、明らかに向上した。熱は、薬が切れると38度台後半。薬を飲んだ数時間だけ、37度台後半。深夜25:00に「センター」からの病状確認電話があったが、寝ていて取れなかった。
8月15日(日) day 12
「熱を下げるためには、水分・酸素・糖質!」とメモにある。医療の知識に詳しい友人からもらったメールにあった言葉。今回多くの方から本当に力になるメッセージをいただいた。気がつくと、玄関に食料品の宅配が積まれていることもあった。「返信は不要です」と付け加えてくれる人も多かったので、その言葉に甘えて個別にお礼することはすべて忘れさせていただいた。贈っていただいたものにはそれぞれ、普段会っている時には気づかないその人の個性が表れていて、それもまた嬉しかった。本当にありがとうございました。
前日から導入した酸素の機械のおかげで、COVIDになっていることも忘れるほどぐっすりと眠る。ただし熱は上下しながらも、あまり良くならない。
午前、保健所から電話。入院の検討をしているが、現在「30人待ち」だとのこと。しかしどなたが担当者かを明らかにしてくれたのは良かった。「センター」からの問診もあった。
ちなみに僕が住んでいる区の区長は、PCR検査の充実をいちはやく提唱するなどコロナへの対応がしっかりした方で、COVID患者の医療とケアについても、この頃さまざまな提言をされていた。僕自身の闘病には間に合わなかったけど、それらの提言にはずいぶん力づけられたと感じている。そんなこの区でさえ、感染ピークの2021年夏には非常に混乱した状況だった。他の区や府県で同時期に感染した方々は、どんなに苦労されたことだろう。
19:00、処方されたステロイドが専用の宅配によってポスト投函される。誤っているかもしれない僕の理解で言うと、炎症というものは、免疫がウイルスと戦うあまり自分の体まで攻撃してしまうことで起こる。ステロイドによって免疫を抑えることで、すなわち炎症も抑えられる、ということのようだ。その代わり必要な免疫まで抑えられてしまうから、他の感染症や、例えばケガなどにも気をつけなければならない。また、薬で与えられることによって体がホルモンの生成を減らしてしまうので、薬を飲み終えるタイミングと量は、医師の指示通りにすることが重要。自分で勝手に止めたりするのは絶対だめ。ということで、星型の小さな薬を、一日一回、もし入院できなければ一週間後まで飲むことになる。薬の代金は公費負担。宅配料だけ自分で払う。
敗戦記念日と「お盆」の週末。例年ならこの週末には、僕は北海道で行われるロックフェスに参加しているはずだった。フェスには2000年ころから毎年出演してきたから、僕はこの20年間、ほとんどお盆休みを東京で過ごしたことがない。それが昨年フェスが中止されて、思いがけず東京に留まることになった。家に居ただけで何もしなかったけど。そして今年はフェスも再び中止になった上に、自分自身は、今日が何日かさえ分からない状態になってこの週末を過ごしている。こんな経験をすることになるなんて、人生は本当に分からないものだ。
8月16日(月) day 13
ステロイドによって、久しぶりに36度台という数字を体温計で見るようになるが、安定せず、体はしんどいまま。保健所から二度ほど、容態観察の電話が来る。連れ合いは、何度訴えても入院できないことに、かなり苛立っている。実は13日の深夜など何度か、救急車を呼ぶことまで考えたそうだ。この日も僕は、なぜかしゃっくりが止まらなくなり、その音が聞いたことのない変なものだったので、夜には連れ合いの我慢は「もう待てない」というところまで来た。壁越しに二人で相談した結果、明日もう一度保健所としっかり話し合い、それでも入院の見込みが立たなければ、救急車を呼んででも病院に連れて行ってもらおう、ということになった。
僕はと言えばこの頃、薬の影響もあるのか、生理的にとても嫌な感じをともなった悪夢を見るようになった。以下はこの数日に見た、悪夢のヴァリエーション:
・この男は僕に対して非常に悪意を持っている。当たりは柔らかいのに。僕はそのことをよく知っている。
・蜂(なぜか夢の中ではbeeと呼んでいる)が部屋中の壁を、体液のようなもので緑と黄色の縞模様に汚してまわる。
・渋い和服の知り合いミュージシャン(実在せず)。居酒屋で僕と話をしている。彼は選挙に出ようとしているが、これほど怪しい話はない。しかし僕は反論できずにいる。
・母親と弟と三人で、青函連絡船(子供の頃何度も乗った)に乗っている。下船の時刻が近づいているのに家族とはぐれてしまった。探そうにも、階段を上がってデッキに出て、また下の甲板に戻ると、船室の配置がすっかり変わっていて、思うように動けない。
・ネット動画の「読み込んでいます……」のように、夢の映像が凍って動かない。
8月17日(火) day 14
朝、連れ合いの体温が、38℃になっている。昨夜クーラーをつけずに寝たから熱中症になったのでは、と本人は言う。昼には元気になったというので、さわやかに晴れた日だから洗濯をしたり、買い物に行ってもらったりした結果、夜にはまた熱が上がる。解熱剤が効いている時の僕より高いこともある。
後に彼女のPCR検査陽性が判明した時には、この日をday 1と数えることになる。酸素の機械の搬入時に完全防備の看護師さんを見てから我々の隔離もさらに徹底して、大きなプラスチック板で空気の流れをさえぎり、僕が自分の部屋を出る時はスマホで連絡、トイレや洗面所はもちろん部屋の外で何かに触った時には必ず、酸素のホースを絡ませながらアルコールで周囲をすべて拭く、と二人の作業は膨大になっていた。それでも、結局感染を防ぐことはできなかった。僕のCOVID体験の中で、最も残念だったことである。
昨日の相談にもとづいて、保健所と「しっかりやりとり」するために作ったメモ。
・発熱が始まってから二週間になり、完全に肺炎が疑われる状態。
・酸素の機械とステロイドの効果はあるが、いつまでこの状態が続くのか?体力的にも限界が近づいているように感じる。
・とにかく入院して、肺を検査してもらいたい。
・もし入院できなくても、レントゲンや血液検査だけでもしてもらえないか。このままでは熱が治まっても肺が元通りになるのか、非常に不安である。
「限界が近づいている」のところに下線が引いてある。最後にはこのフレーズを強調しよう、と二人で申し合わせた。
しかしこちらから訴える前に、保健所と「センター」から何度か電話が入る。問診もあり、何か今までとは違う動きの気配がある。
8月18日(水) day 15
11:00、隣の部屋で連れ合いが涙ながらに「ありがとうございます」と繰り返している。
保健所から電話があり、この日の19:00に、僕が住んでいるのと同じ区内の病院へ入院することになった。
(続く)