エマーソンと話す堀川会議室(1)イントロ

 屋根をたたく雨の音、バスの床から伝わる振動、壊れて止まらなくなったシンセのノイズ……そんなものを聴いている時、僕の心はとても自然で「自分自身」になっているような気がします。一方、僕が毎日ライヴハウスで何だかんだと取り組んでいる音楽は、さまざまな意図が交錯し、気を抜くとすぐ「自分自身」から逸れてしまうようなできごとの連続です。
 「音楽」と書いた大きな枠を描き、一方の端に「意図」から自由で「純粋な」音楽を、もう一方に、自分の活動もその中のひとつである、毎日世にリリースされている「意図だらけの」音楽を置いた時、その間には、いろんな価値基準にさらされている音楽上のできごとが、雑にぶちまけられています。音楽を聴くだけであればそんな様子を好みの価値基準(「リファレンス」)に照らして横並びにし、俯瞰して楽しむこともできるのでしょうが、いざ自分が作るとなると、本当の意味で「意図」から自由になってものごとを進めるのは、とても難しいことです。
 なぜそんなことになるのでしょう?
 自分の中にまだ形になってない何かがあって、寝起きの布団の中や街を歩いている最中に、頭の中であれとこれを結びつけたり離したりしながら探っている時、そこに意図はなく、自分自身がいるだけです。ただそれを他人に伝えようとすると、音楽なら音、映画なら映像、文章なら言葉といった、表現要素を使わなければなりません。そして表現要素というものは自分の「外」にある以上、こちらから働きかけて関係を作らなければならないものです。その働きかけが表現活動ということですが、他人も時間も関係ない自分の「内」から、できるだけ「自分自身」を保ったままで、ややこしい表現要素の世界へ「えいやっ」と飛躍することは、心と頭と体を使う、しんどい作業です。そのために表現活動そのものが輝きを失って見えてしまうことも、特にCOVID禍の下では経験した方がいるのではないでしょうか。
 ずーっと布団にくるまったまま壮大なアイデアを展開するのでもない限り(否定しませんが)、表現活動において「意図」をゼロにすることはできません。ただし、表現活動を続ける中で、結果的に今回は「意図」にじゃまされず良い選択ができたね、ということはあるし、その時には分からなくても、ずいぶん後になってから、ああこれは本当はこういうものだったんだということを、それこそ「意図せずに」理解する瞬間というものは、あると思います。
 「リファレンス」が音楽作りにおいて時に足かせとなるのは、「リファレンス」にもまた「リファレンス」があり、人が作ったものだということを忘れてしまうからです。例えば音楽について書かれたものを読むと、新しい音楽のアイデアは、新しい場所に移った人と元からいる人の出会いによって生まれることが多いそうです。その時モノサシとなったのは演奏者とお客が手探りで見つけ出した「音」しかなかったでしょう。価値基準とは、それを後からまとめたものでしかないのだと思います。
 僕がこれまでの音楽活動で一番やってきたことは、「何かわからないが何かを持っている人に、それを形にするための手助けをする」ことだったと思っています。表現要素というややこしいものを「その人自身」に近いところに持ってくるには、それを歴史や社会の流れの中にきちんとおいて見ること、それから、一見それに反するようですが、価値基準など気にとめず、その要素を単なる「音」としてとらえることとの、両方が大事だと思います。
 「音」という表現要素は結局のところ、ある空気の振動が、ある時間軸の中で動いて起こることです。それは雨の音でもダブバンドの演奏でも変わりません。雨の音とダブバンド、そしてさまざまな音楽の性格を分けるものは、過去と現在の、作り手と受け手が音の組み合わせに対して「込めてきたもの」の違いでしかありません。僕がトークでみなさんと一緒に見つけたいと思っていることは、そんな「込めてきたもの」の一端です。


エマーソン北村と話す「グルーヴ、バンド、内と外からの音楽」
2024年11月22日(金)堀川会議室(京都市上京区桝屋町28)
トーク 18:30 – 20:30
ワークショップ 15:00 – 17:45
料金:いずれも無料(投げ銭制)
お問い合わせ・ご予約
https://forms.gle/JPLtzA2sE1nvJFzM6