エマーソンと話す堀川会議室(2)トークのテーマについて

2024/11/22(金)に京都・堀川会議室で行われる僕のトークイベントのテーマ「グルーヴ、バンド、内と外からの音楽」について、SNSでは伝えきれないことを、ブログに書いてみます。

(お知らせというかお詫び)

告知ではトークのテーマを「グルーヴ、バンド、内と外からの音楽」としていました。しかし今、この文を書きながら当日のことを想像してみたら、三つのテーマのすべてを話していては間違いなく時間が足りなくなる、ということに気づきました……当日は「グルーヴ」というテーマを中心に、これと分かちがたい「バンド」についても取り組み、僕にとってとても大きなテーマである「内と外からの音楽」については、今回は予告編程度にするしかないのではという判断になりつつあります。ひとつひとつの話が雑になるのも悲しいですし、参加者のみなさんからの質問時間は何をおいても確保したいです。これらをどうぞご理解の上、下の文章「内からの音楽、外からの音楽」については、今回のトークでは触れられないかもしれない前提でお読みください。今回のイベントを成功させて、続けられるようにしたいので、その時にしっかりとやりたいです!
ライヴと違って僕にはトークの時間を予想する力がまったくありませんでした……申し訳ありません!


「グルーヴ(バンドを含む)」について

 音楽の表現要素には、歌詞、メロディ、和音、構成(アレンジ)などいろんなものがあります。その中で僕が重視するのは「グルーヴ」です。例えばある曲について考える時、「グルーヴ」を基準にすることが、自分にとって一番「アテになる」のではないかと思っています。
 ただし、「グルーヴ」とは何か、その定義を説明するのは難しいです。それはいろんな要素の絡み合いから、聴く人・演奏する人それぞれが感じればいいことだと思います。それでも僕は音楽の作り手として、これはこうやったから良いグルーヴが出ている・これはグルーヴを減ずるやり方だなあ、というようなことを始終考えています。このトークではそんな話から始めたいと思います。
 グルーヴはリズムとイコールではありません。リズムのない音楽からグルーヴを感じることもあるし、良いリズムがそれだけで良いグルーヴを生むとは限りません。ただ言えるのは、音程や和音といった「音楽表現(ミュージカル・エクスプレッション)」が基本、静止画のように時間軸を忘れても存在できる要素であるのに対し、リズムやグルーヴは、時間を感じなければまったく意味をなしません。仮に音楽を、縦軸に音楽表現・横軸に時間をとったグリッド(音楽ソフトのピアノロール画面のようなもの)でとらえるなら、なぜか僕は圧倒的に「横軸派」なんです。
 よく、グルーヴは「揺れ」であると言われます。しかし演奏が「揺れ」さえすればグルーヴが出るのかというと、疑問です。アンサンブルの中で一人の演奏が「揺れる」ことと、全体が「揺れる」こととは全く別問題です。グルーヴはひとつのパートで生まれるものでなく、「関係」から生まれるものだからです。トークではそのことを、一人・バンド・シーンという段階ごとに、音楽を聞いたり軽くキーボードを弾いたりしながら話したいと思います。特にバンドが生み出すグルーヴの「謎」に重点を置きます。
 グルーヴと関連して興味のある方も多いと思う、「ルーツ」ミュージックのグルーヴについても話します。これにまつわる様々な意見をイヤというほと浴びながら僕はミュージシャンをやってきました。そこでこのトークでは巷の言説をいったん忘れて、「音」- 縦軸に音楽表現・横軸に時間 – だけを頼りに、この問題を考えてみます。そうすると「ルーツ」ミュージックとは何かということまで話は拡がって、「内」にある音楽と「外」からの音楽が出会い、せめぎ合う場としてのグルーヴが発見できるかもしれません。
 「音」について話そうとするとどうしても、ミサイルの着弾する音や子供の泣き叫ぶ声をそれに含まざるを得ないこの2024年、僕は自分が作れる音楽はどんなものかということを考え、なかなか動きがとれませんでした。単なる勘にすぎませんが、「グルーヴ」はそのひとつの手がかりになるかもしれないと思っています。このトークを行うことで、自分にとってもその勘が少しでも整理できたら、この上なく嬉しいことです。
(11/13 少し加筆・修正しました)

内からの音楽、外からの音楽

 告知ではひとつにしてしまったこれらの言葉には、二つのテーマがあります。
 ひとつは、「イントロ」に書いた通り、自分の「内」にある形にできないもの(自分自身といっても良いでしょう)と、さまざまな価値基準にさらされながら進めなければならない、表現要素という「外」の世界との関係。それからもう一つは、ミュージシャンとして自分が毎日出会う様々な「外」の音楽を、どう自分の「内」側に取り入れたらいいのかという、僕がずっと考えてきた問題です。
 僕は、「洋楽」といえば欧米のロックが一番優れているとされていた頃に、パンクロックの流れから、そんなことねーよ、レゲエが、サルサが、アフロポップがすごいんだよという動きの影響でバンドを始め、DJカルチャーの下にあらゆる「ルーツ」ミュージックが横並びに聴かれる時代に、作り手として活動してきました。メインストリームの音楽に比べてよりストレートに歴史や社会の流れの中で生きる人の存在を感じさせる音楽、それをどう「自分のもの」にするか。さまざまな試みを続ける間には、今となっては恥ずかしい誤解や予断もたくさんありました。しかし最近になってまた、「人種」や民族と文化を狭く固定して考えることに対抗するたくさんの声が上がってきました。それを聞いたり読んだりすることで、僕も、新しいことを知ったり新しい見方ができるようになったと感じています。
 そんな流れを背景に、僕自身の「内」なる記憶にも触れながら、ミュージシャンに自分の「DNA」と言えるような音楽などあるのか、また、「外」の音楽を単なる飾りとして扱わない音楽の作り方はどうあるべきかなど、僕が今も試行錯誤している問題について、レゲエはもちろん、韓国のバンドシーンや江州音頭に関わった仕事体験も含めて、考えてみます。


エマーソン北村と話す「グルーヴ、バンド、内と外からの音楽」
2024年11月22日(金)堀川会議室(京都市上京区桝屋町28)
トーク 18:30 – 20:30
ワークショップ 15:00 – 17:45
料金:いずれも無料(投げ銭制)
お問い合わせ・ご予約
https://forms.gle/JPLtzA2sE1nvJFzM6