1991年の夏、僕は大阪の商店街で

1991年の夏のある日、僕は大阪・阪急東通り商店街の「王将」で、天津飯を食べていた。近くにあるライブハウス「BANANA HALL」でライブするため我々は東京からやってきていて、リハーサルと本番の間の短い時間に遅い食事をとり、その後商店街をブラブラするのだ。カウンターの横に積まれている新聞には、誰かが戦車によじ登っている写真が載っていた。ソ連のできごとらしい。何かに呼ばれたような気がして、僕はその写真に見入った。戦車の上にいたのは当時のエリツィン大統領で、それは後にソ連邦の崩壊を象徴する写真のひとつとなる。

僕は何か、とてももやもやしたことを覚えている。子供のころから当時(20才台)までの僕の認識は、世界には資本主義国と社会主義国があり、それぞれに問題があり、でも相手からの影響にも目をつぶるわけにいかなくて……といったバランスで世の中は動いているというものだった。それが変わるんだなあと思ったが、どう変わるかは考えているヒマがなかった。なにせ数時間後にはライブをやり遂げなければならないから、頭の中はそのことでいっぱいだったのだ。僕は新聞を置いて、街に出ていった。

いつも僕はこうなのだ……今から思えば、あの頃が変化のはじまりだったのかもしれない。それまでは、株価は我々庶民を含めての「景気」を示すものではなかったし、会社の利益と働く人の幸せは同じものではなかったし、企業が公害を出したり政府が薬害を放置したりすれば徹底的に追求されていた。もちろん、社会主義国の崩壊といった「外」のできごと一回だけですべてが変わったわけではないけれど、その前も、後も、少しずつ、変化を繰り返した結果として、今僕らはこんな世の中を見なければならないことになっている。

そして僕はと言えば、その変化にうっすら気づいていながらも、その度ごと、目の前の片付けなければならないことと格闘していて、政治の動きと毎日の雑事との間の距離は、変化したことがなかった。バブルの崩壊も金融危機も原発事故も、バイトや機材車の運転やツアーの合間に知った。それが最も「近づいた」体験と言えば、COVID-19になりながら自宅療養という名目で放置された、昨年のことだろう。しかしそれはできごとというよりも、政府によって直接自分と連れ合いの生命が脅かされたという方が合っている。

ただ、僕は今ここで、「だからこれから、自分と政治との関わり方を変えます!」という話をしたいのではない。もちろん自分の姿勢はこれからも変わると思うけど、自分自身の存在が、政治や経済の大きな流れに翻弄されながら、毎日としては音楽や食べることやその他の雑事をクリアすることで精一杯なものであるということは、ほぼ変わらないだろうと思っている。それでいい、というかそれ以外のあり方はない。政治に関わるということは毎日の雑事とは別の何かに飛び移るようなことではなくて、雑事でいっぱいいっぱいになりながら、その時その時に必要な行動を選んでゆくことだと思っている。

しかし時には、今までのこと・これからのことに考えをめぐらせて、あまりにも心許ない気持ちになることがある。「価値」、僕を翻弄する大きな流れと毎日の雑事の間をつなぐことのできる、自分にとっての「価値」があってほしい。僕は音楽など表現分野においては、そんな一直線の「価値」を信じていないのだけど、さすがにこんなできごとばかり体験させられる世の中にあっては、懐中電灯のようにたまに光って、「あの時呼ばれたような気がしたのはこういうことだよ」とそのつながりを照らしてくれるような「価値」は、あっていいのではないかと思う。

それで、自分にとってそんな価値とは何だろう……といろいろ思い出しているうち、そのひとつは日本国憲法である、ということに気がついた。

僕が小学生の頃は、教室で先生から「日本国憲法は誇れるものです」と普通に教えられていた。戦争をしない、政治は人々が決める、生命・自由・人権は守られるべき、といったことは「価値」なんだ、という教えは何も知らない子供に吹き込まれたのではなく、大人よりもよっぽど「世界」を感じている子供だからこそ納得できるものだった。それはその後の僕の、ぐらぐらした人生の中でも変わらなかったのだから、思想信条というよりも自分にとっての価値として、そのことは表してもいいんじゃないかと、このところ思うようになった。

最近の僕のリリース作品やyoutubeには「エマーソン北村は戦争に反対し、日本国憲法を誇りに思います」あるいは「反戦・護憲」といった一行を入れている。そうするに至った理由をいちどきちんと書きたいと思っていた。きちんとではなくて取り急ぎになってしまったが、こういうバックグラウンドがあって載せているのだと思って読んでいただけたらとてもありがたい。そんな思いで、この文章をポストしておきます。