COVID-19闘病日記 (3) 2021年8月~9月

8月18日(水) day 15 入院1日目

18:30、二週間ぶりにマンションを出て、病院に手配してもらった民間患者搬送の車で病院へ向かう。窓から見える夕暮れの街は最後に見た時とは違って、少しだけ秋の気配がある。
外来が終わった後の病院で、何にも触れないように荷物を抱えたまま車椅子に乗せてもらい、そのままCT室に入る。肺周辺を撮ってもらった後で病室へ。この病院では1つのフロアの全体がCOVID患者に当てられているようで、当然看護師さん達も完全防備。点滴、酸素吸入のセット、薬の説明、入院書類記入、としなければならないことが相次ぎ、部屋をゆっくり見渡せたのは消灯時間を過ぎてからだった。
看護師さんから、この病棟のルールを説明してもらう。医師の診察はSNSのヴィデオ通話で行い、体温や血圧も自分が測って、結果を写メしてSNSでナースステーションに送る。室内で出たごみは週一度の清掃時まで部屋の中に留め置き、洗濯物はビニール袋で保管する。食事もドアの前に置かれたものを自分で取って、食べ終えた食器は人のいない時に自分でドアの外に置く。
点滴、壁から送られる酸素、リアルタイムで数値がナースステーションに送られるパルスオキシメータと、3本の管をつけたまま部屋の中で過ごす。個室でトイレや洗面も室内にあるのだが、これにスマホの電源を加えた4本の線が絡まないよう上手に動くのは、なんだかこんなゲームあったな、と思わせるテクニックを必要とした。しかし、3日前にステロイドを飲み始めてから夜中も二時間ごとに起きるようになり、汗だくで目覚める→トイレ→脱水しないよう水分を摂る→横になる→汗だくで……、のループを一晩に何度も繰り返すから、トイレが室内にあることはとても助かった。
長期間家を空けることは、僕にとってはすなわちライブツアーに出かけることに他ならなかったので、その感覚で持ち物を揃えてスーツケースで行ったら、看護師さんに笑われた。病室内は自分の部屋よりもはるかに適切な温度調節がされているので薄着や厚着をする必要がなく、パジャマとタオルはレンタルのものでほぼすべて間に合った。逆に、綿棒のような直接病気に関係のない身近なものは、意外になかったりした。僕のいた病院にはWi-Fiも入っていたのだが、パソコンは持ってこなかったし、スマホも必要な連絡をする他には使わず、メールもウェブも見なかった。家を出る直前になって本を持っていかなければと思い出し、急いで本棚を見渡した。面白く読み続けられて、しかしあまり心が揺さぶられるようなものでなく(体力を使うから)、そこそこ分量があって物理的に重くない本……えいっ、と取ったのは、ジョナサン・ワイナー著「フィンチの嘴(くちばし)」ハヤカワ文庫。ガラパゴスの孤島で進化論を証明するために、何十年間ひたすら小鳥の嘴の長さを測り続ける科学者達の話。自分でいうのも何だが、ベストな選択だった。

8月19日(木) day 16 入院2日目

病院の日課。6:00点灯 8:00朝食 12:00昼食 18:00夕食 21:00消灯、7:00/10:00/14:00/19:00 には体温と血圧の測定。トイレに行った回数を大小別に控えておく。空いた時間に、理学療法士さんとSNS経由でリハビリ(ストレッチや軽い運動)をする。当面の数日は午前中に点滴。飲み薬も、宅配で家に送られてきた処方よりはるかに細かく調整されている。
普段はものすごく不規則な生活をしているから、この早寝早起きについていけるか不安だったが、体がつらかったせいもあって、初日から意外と早めに寝られた。あらゆる面から考えて、素直に、入院できて良かった。
医師の話では、CTには肺炎を示す影がある。明日出る血液検査の結果を見てまた詳しく方針を立てましょう、とのこと。いったい僕の肺炎はどの程度の状態なのか知りたかったが、なかなか自分からは切り出せない。後日、通院するようになってから先生に「あの時は悪かったですからねえ〜」と言われて初めて、そんなことだったのかと驚いた。
午前中は忙しく過ぎ、昼食後はリハビリがあり、それが終わると夕食まですることがない。窓の外を眺め、本を読み、少し横になって、時計を見ると30分も経っていない。本を置いて、いろいろなことに思いを巡らせる。感染原因のこと、これからの音楽活動、お金の不安……しかしどの考えも、堂々巡りしている間にちりじりになって、まとまることがない。そうして時計に目をやると、まだ15分と経っていない。病室の壁のように真っ白な、ループする時間。
連れ合いとはおおむね、朝夕まとめてメッセージで話をする。今日は一日中寝ていたとのこと。さすがに看病で疲れたのだろう。

8月20日(金) day 17 入院3日目

医師と再び話す。ウイルスの排出はもう終わっていると思われる。しかし肺炎は、時間をかけて治さなければならない。酸素吸入を外し、点滴は飲み薬に変えて、徐々に普通の体に戻してゆく。筋肉にも負荷をかけて、退院後の生活に備える。「退院後」はちょっと早すぎないかとも思ったが、考えると納得できる話だ。
ウイルスの排出はないと判断されたので、COVID専用病棟から一般病棟に移る。先生の話から「引っ越し」まで数時間。ちょっと矢継ぎ早な感じもするが、少しでも早く病床を空ける必要があるのだろう。ちなみにここまでの医療費は公費負担であったのに対し、ここからは普通の病気と同じく、自己負担を含む保険診療となる。100%COVIDのせいで肺炎になったのだが……。移った病室は、フロアが変わっただけでほぼ同じ風景。しかしこれからは、部屋の外を自販機まで、飲み物を買いに歩くこともできる。結局、COVID病棟には48時間も居なかったことになる。
連れ合いからメッセージあり。昨夜からまた38℃の熱が出て、今日になっても下がらないので、2週間前に僕が行った医院の発熱外来に行き、PCR検査を受けてくるとのこと。看病疲れからくる単なる夏風邪だと二人とも思っていたのだが、実はそう思いたがっていただけかも知れない。彼女がやっと取ったワクチン接種の予約は、この週末だ。

8月21日(土) day 18 入院4日目

連れ合いのPCR検査結果は、陽性だった。僕が入院する前日からの熱は、やはりCOVIDによるものだった。ワクチン接種は翌日の予定だったが、これもキャンセルしなければならない。この一年半、僕が知っている中では最も感染に気をつけていて、やっと予約できたワクチン接種を心待ちにしていた彼女の努力は、僕が持ち帰ったウイルスと看病のために、すべて無駄になった。彼女の気持ちはいかほどだっただろう。
メッセージ越しに本当に残念だという話をしたが、しかし落胆している余裕もない。発熱に対処しなければならない。しかも今度は、家に看病できる者はいない。僕ができるのは、スマホの画面を見ながらおろおろすることだけだ。マシなことがあるとしたら、家庭内隔離に気を使う必要のないことだけか。
僕自身は、昼間は結構楽になり、リハビリ室でストレッチもできたのだが、夜になると上手く寝られない。起きてトイレと給水のループをするたびに回数と時刻を数える。メモによるとこの夜起きたのは、23:02/2:00/3:51/6:36。このようなパターンが、ほぼ毎夜繰り返された。

8月22日(日) day 19 入院5日目 / 連れ合い day 6

院内も窓の外も、どことなく日曜日の気配。僕は二日間かけて、伸びに伸びたひげを剃ったり爪を切ったりする。久しぶりに自分の顔をまじまじと見ると、顔色も生えているひげの質感も普段とはまるで違っている。そういえば発症のはじめ頃から、熱はあるのに足の先はずっと冷たくて、体の先端のあちこちで、土気色に血の気の失せた部分が、まだら模様を作っていた。今、窓から光の差しこむベッドの上で、発熱が作った老廃物を掃除していたら、少しは人間に戻ってゆくような気がした。
しかし家では前夜、連れ合いの熱が一時、39度にまで上がっていた。この日も、昼間は下がったが夜になって再び上がり、39℃を超える。今夜で解熱剤が切れるが、処方してもらえたとしても僕の場合と違って取りに行ってくれる人がいない。病室から方々に連絡しまくり、やっと、翌朝動ける時間のある友人を見つける。そして明日になったら保健所に、連れ合いの入院もお願いしようということになった。

8月23日(月) day 20 入院6日目 / 連れ合い day 7

朝から、採血の看護師さんはじめスタッフの誰かと顔を合わせるたびに「連れ合いが高熱を出して家に居るんですー!」と訴える。入院は保健所の所管だからここで僕が訴えても便宜をはかってもらえるわけはなく、自分もそんなことは望んでいないのだけど、それでも言い続けずにはいられなかった。結局僕の担当医師とも話をして、連れ合いの方から申し込んで、この病院が行なっている電話による発熱外来の診察を受けることになった。その結果午後にはステロイドが処方されることになり、ふたたび取りに行ってくれる友人を探すことに。午前に取りに行ってもらった解熱剤と合わせてひとまず必要な薬を手に入れることはできたが、二人の友人と連れ合い、そして僕の四人が連携する大仕事になった。しかし二人の友人たちは、込み入ったお願いを即答で引き受けてくれた。
僕は、この日からステロイドを飲む量が少し減った。この三週間風呂に入っておらず、せいぜい体をタオルで拭いていただけだったが、初めてしっかりとシャワーを使う。痩せている。そういえば、日によっては枕に驚くほどの抜け毛を見つける時があった。歯ぐきの痛い時もあった。熱が下がってきても、体は様々な変調をこうむっているようだ。

8月24日(火) day 21 入院7日目 / 連れ合い day 8

病室の窓の外をとんぼが飛んでいた。連れ合いに関しては薬を処方してもらうのと並行して、保健所から連絡が来る度に、入院したいと訴えることも続けていた。僕の時は煮えきらない姿勢が入院の遅れにもつながったから、今回はその反省を生かすつもりだ。そして保健所の方も、昨日から連れ合いに連絡をくれているとのことだ。
今回僕が体験した限りでは、保健所の職員の方々はすべて、とても誠実に対応してくださった。処理しなければならない件数が莫大になっているはずなのに、一人ひとりに対する仕事の密度が落ちることはなく、連絡がいつ来るかはわからなかったけど、対応が雑になることはなかった。その姿勢はきっと、公務員としての「プロ意識」から生まれているのだろう。仕事がたまっても密度は落とさない。それはミュージシャンというかけ離れた「業種」にいる自分にも想像できた。だ・か・ら・こ・そ、国政、都政府政、区政が大事なのだ。彼らの「プロ意識」を生かすも殺すも政治次第。それは電話口のすぐ先に存在している。
それにしても、PCR検査の結果が出てからもう4日間、入院のことを言い続けている。やはりどうしても時間がかかるんだな……と思っていたら、午後に検温の看護師さんから「奥さん、ウチに来ることになりましたねー」と言われる。ぜんぜん聞いてないんですけど……と連れ合いに確かめると、急遽決まったので僕に連絡する時間もなく準備に追われているとのこと。
そんなわけで、同じ病院の上と下のフロアで、僕と連れ合いは入院生活を送ることになった。ひと安心というところだが、何だか訳のわからない喜劇のオチを見ているようでもあった。連れ合いも肺炎を起こしており中等症になっていた。もちろん会うことはできない。

8月25日(水) day 22 入院8日目 / 連れ合い day 9 入院2日目

明け方からではあるがこの夜は、COVIDになって初めてくらい気持ち良く寝ることができた。起きた時なぜか「♪オレがオレの体のマスター」というフレーズが浮かんだ。これまで、自分が自分の体の主人だとは感じられない日々が続いていたのだ。
「上のフロア」から送られた連れ合いのメッセージで、ローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツが亡くなったことを知る。
この二日間、僕と担当医師とは、連れ合いの話しかしていなかった気がする。それで、朝診察室に呼ばれて「今日、退院しますか?」と聞かれた時には一瞬、何だっけその話と思った。すぐに自分のことかと気がついて、反対する理由は何もないからはいと答えた。入院から8日、診察から三時間で、僕はこの病院を出ることになった。
退院するに当たって、ウイルスはもう排出してないが、ステロイドによって免疫全般が衰えており、風邪などCOVID以外の感染症にもかかりやすくなっているから、自宅に戻ってもできるだけ外出しないこと、連れ合いが家に残していったかもしれないウイルスに再感染することはない、この後二週間程度かけてステロイドを徐々に減らすから、ゼロになるまで指示通りに薬を飲むこと、などの話を、CTスキャンの画像を見せてもらいながら聞く。入院時には枝のように肺の中に拡がっていた炎症を示す白い部分の面積が、徐々に小さくなっている(まだなくなってはいない)。この画像欲しい!プリントアウトして部屋に貼りたい!と思ったが大人気ないと思い直して、言わなかった。後日連れ合いも同じことを考えたらしく、こちらは本当に聞いてみたところ、コピーすることは問題ないが相応の料金がかかるということだったので、あきらめたそうだ。
荷物をまとめて次回外来の予約をし、入院費用を精算して、退院証明書をもらい(これを受領するのが必要だということも今回初めて知った)、連れ合いに報告して、11:00、ウチへ向かうタクシーに乗る。

家に着いてみると、たった一晩でも誰も居なかった部屋には、ムッとした夏の空気がこもっていた。窓を開け放ち、金魚にエサをやって、自分もそうめんを作って食べる。自分で食事を作るのは三週間ぶり。今度は正しい意味での、自宅療養の始まりだ。
連れ合いの残していった布団は湿っていて、洗面所には経口補水液のペットボトルや宅配の箱が散乱しており、かなり激しく熱と闘ったことがうかがわれた。自分の布団のセッティングなど力仕事もしたので、疲れて夕方には寝てしまう。
再び起きて、じゃこ入り玉子焼き、たまねぎの味噌汁などを作って食べたあと、ローリング・ストーンズ「刺青の男」B面を聴く。

8月26日(木) day 23 / 連れ合い day 10 入院3日目

退院したとはいうものの、熱は平均で37℃前後が続き、夜はやはり頻繁に起きてトイレに行っている。布団干しによってはウイルスは飛散しない、と確かめた上でシーツ等を洗い、洗えないものは干す。疲れたら横になって本を読む。この日はパク・ソルメ「もう死んでいる十二人の女たちと」。すごく良いけど一気に読めなくて、COVIDになる前から時間をかけていたもの。それから、夕食の前に毎日一枚、アナログレコードを聴くことにする。この日はジャッキー・ミットー「イン・ロンドン」。セロニアス・モンクやサニー・アデの日もあった。
連れ合いは、入院したのにむしろ熱が上がっているそうだ。この日はアイスノンをもらって横になり、食事も出された二割しか食べられなかったとのこと。

8月27日(金) day 24 / 連れ合い day 11 入院4日目

連れ合いは明らかに入院時より容態が悪くなり、昨夜は明け方から熱が上がったために朝から急遽点滴をしたとのこと。心配だ。診察によれば、感染から10日経ってまたウイルスが暴れだす人もいるからおかしなことではないが、他の感染症になっている可能性もあって、そちらの方が問題だということで、CTを撮り、血液検査のための採血を行なった。
僕は、入院中まったく外との連絡をしていなかったので、一日かけて各所へメール。年内はライブは無理だろうということでほぼすべてのスケジュールをキャンセルし、レコーディングのいくつかは自分の家で録音する方法に変更してもらう。

8月28日(土) day 25 / 連れ合い day 12 入院5日目

まだ外にはあまり出られないが食料がなくなったので、ほぼひと月ぶりに近所の商店街へ。時間帯のせいかもしれないけど通りは何だか妙に静かで、「スタッフに感染者が出たのでしばらく休みます」といった張り紙も見かける。
コロナ禍のはじめ頃から僕は高見順の「敗戦日記」を繰り返し読んでいる。1945年、太平洋戦争末期の作家の生活を綴った日記で、戦前は賑やかだった東京の通りを歩いては、あれもなくなった、ここも焼けた、と延々書き綴っている。今はもちろん建物は焼けてないけど、見えないところでたくさんのことが壊れているのを思いながら通りを歩いていると、75年前の日記がまるで今年のことのように思えてくる。
連れ合いは昨日よりは良くなったが、息が苦しく、酸素吸入をした時間もあったとのこと。
僕自身も、熱は退院した日が一番低くて、それ以降はずっと36.8℃から37.2℃の間を動かず、酸素も平均すると95。厚揚げを焼いたら油が跳ねてしまったのだが、普通なら何でもないはずのその跡がしっかり火傷になって、数日間治らなかった。

8月29日(日) day 26 / 連れ合い day 13 入院6日目

連れ合いは今朝も点滴をした。明け方に咳が出て止まらなくなり、薬をもらったとのこと。ただし熱は、ようやく徐々に下がりかけているらしい。
感染前から僕は、ジャッキー・ミットーに関するカナダ・ヨーク大学の論文を読んでいる。ジャマイカに生まれ、カナダやイギリス、そして合衆国を行き来しながら、レゲエの基礎を作ったキーボードプレイヤーだ。英語なのでものすごく時間がかかり、文字通り入院でもしないと読み終えることはできなかっただろう。その中に彼が好きだったジャズピアニストのことが書かれていたので、アーマッド・ジャマルと検索して、横になりながら彼の「ポインシアーナ」を聴く。

8月30日(月) day 27 / 連れ合い day 14 入院7日目

翌日は、退院してから始めての通院日だ。連れ合いに面会することはできないが、差し入れはものによってはOKと聞いたので、そのための買い物をする。連れ合いのリクエストと差し入れ可能な品目とのバランスが難しく、商店街を行ったり来たりする。まだ日差しは暑い。
昼間はそこそこ元気なのだが、ステロイドのせいもあるのか、夜は2~3時間寝ただけで目が覚めてしまい、その後はうつらうつらとしかできない。早めに寝たり眠くなるまで寝なかったり、いろいろ試してみても変わらない。さすがにこれは不眠症だな。

8月31日(火) day 28 / 連れ合い day 15 入院8日目

一週間前まで入院していたのがはるか昔のように感じる病院へ、今日は外来患者として向かう。
差し入れを預けた後、レントゲンを撮って、医師と話。ステロイドの種類を変えて、徐々に減らしてゆくことに。不眠を伝えて睡眠導入剤を処方してもらった。
入院中は窓の外を見ながら「ここを歩きたいなあ」と思っていたので、帰りに病院の周囲を散歩する。期待したほど面白くなかった。
連れ合いはこの日の午後、COVID病棟から一般病棟に移った。週末の悪い状態からは、まずまず抜け出せたようだ。

9月1日(水) day 29 / 連れ合い day 16 入院9日目

昨夜からぐっと涼しくなる。雨も降った。
この日からステロイドコントロールに入る。薬の種類をワンランク軽いものに変えて、今日飲んだ薬の量を三日後には半分にし、六日後にはその半分に、九日後から飲むのが二日に一回ずつになり、十二日後に最後の分を飲む……日数はあくまで例えだが、そんな風に減らしてゆく。部屋の壁にその日飲む薬の量を絵に描いて貼る。そうしないと難しくてわからなくなる。
この日の体温は、平熱から36.8℃くらいの間をふらふらと。酸素は平均96で95まで下がる時もあり、息は良く吸えるが動くとしんどい時もある。
連れ合いは一般病棟2日目。もう少し早く退院できるかと期待した時もあったが、この日医師と話して、少なくとも週末までは入院して様子を見ようということになる。彼女もやはり夜、寝られないようだ。

9月2日(木) day 30 / 連れ合い day 17 入院10日目

僕の熱は36.8℃酸素95。息はよく吸えるのだがしんどい時もある。連れ合いも、熱は高くないが調子良くもない。二人とも中途半端な状態で時間だけがあるので、午後いっぱい、連れ合いの観る「ブルース・ブラザース」にこちらからもツッコミを入れるスタイルで、しょーもないメッセージを送りあって過ごす。

9月3日(金) day 31 / 連れ合い day 18 入院11日目

昨夜睡眠導入剤を飲んで寝たら、COVIDになってから初めて良く寝られた。体の緊張がワンランク解けたような気がする。体温も36.5℃という数字を見た。聴覚・視覚・触覚まで、今までかかっていた霧が晴れたような感じだ。今まで便秘でもあったが、普通の「おなら」が出るようになってきた。
しかしこの後、このような「初めて」を、僕は何度も経験することになる。その度ごとに、今まで良くなったと感じていたことは、実はまだまだだったんだなと気づく。どうやらCOVIDの回復過程は一直線ではなく、進んだかと思えば後退し、ひとつ症状がなくなったと思えば別のところに表れて、曲がりくねった道をたどりながら徐々に、本当に徐々に進んでいくもののようだ。病気というのはすべてそういうものなのかも知れないが。
連れ合いから連絡があり、明日の午前に退院するとのこと。結局僕よりもずいぶん長く入院したことになる。彼女が戻ってくるのに備えて掃除、洗濯、煮物を作るなどする。

9月4日(土) day 32 / 連れ合い day 19 入院12日目

同じ家に住んで、同じ出どころのウイルスに感染して、1〜2週間の差を保ちながら同じような経過をたどったように思える僕と連れ合いでも、症状は内容にも重さにも差があるし、体験としてはまるで違った経過をたどったと言うことができる。高熱を出している間、その本人は夢の中にいるようなものだから、その分精神的には楽だったかもしれない。むしろそれを見ている者の方が、感じるストレスは大きかっただろう。トータル一ヶ月も同じ大変な時を過ごしているのに、連れ合いはその半分を僕の看病に費やし、僕はと言えば、連れ合いの熱が一番高かった時期は自分が病院にいるか連れ合いが病院にいるかだったので、彼女が苦しむ姿を直接は見ていない。そんな、体験と言っても対称じゃないという事実は、この後も何らかの形で残っていくだろうなあと思う。たった二人でもそうなのだから、何万何十万人といる感染を経験した人のそれぞれに自分だけの体験があり、その中には「他人」には分からないものもあるだろうなと思うと、その複雑さに気が遠くなる(2022年1月末の時点で、国内の検査陽性者の累計数は二百万人を超えている)。だけどそうした体験のひとつひとつが間違いなく、パンデミックというできごとを形作っているのだ。
朝10:00前に病院に行き、連れ合いを迎える。タクシーに乗って帰り、ハグしてそうめんを食べて、一ヶ月ぶりに対面で過ごす二人の生活に戻る。

(続く)